主题: [转载]智清:日本的僧人所受大乘戒果真是鉴真大师所致?
源地址:http://blog.sina.com.cn/s/blog_612f38bb0102vyel.html
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现在的导游普遍存在的一个现象就是不依据事实和史料而瞎说,这不但是对历史的歪解,也会误导大众,是极为不负责。这不,大清早收到这么条消息:说一法师在日本参观,听领队说,(鉴真)大师当年所带去的为六重二十八轻的在家菩萨戒,而非比丘戒,这也是导致了目前日本佛教界现状的直接原因。”
这完全是不符合历史事实,也非常有损我大唐三藏法师鉴真大和尚的形象和地位,为了有说服力,从日本文献中截取以下信息来说明这个问题:
关于大师第六次东渡的团队,依据《唐大和上東征伝》记载:
相随う弟子は、揚州白塔寺の僧法進、泉州超功寺の僧曇静、台州開元寺の僧思託、揚州興雲寺の僧義静、衢州霊耀寺の僧法載、竇州開元寺の僧法成等の一十四人、藤州通善寺の尼智首等三人、揚州優婆塞潘仙童、ペルシャの人宝最、如寶、崑崙国の人軍法力、膽波国の人善聴、総て二十四人。
摘录以上信息,是为了说明大师在日本传戒,在人员上符合传戒的要求。
关于大师携带的经书、佛像与物品,同依据《唐大和上東征伝》记载:
将つ所の如来の肉舎利三千粒、功徳繍普集の変一舗、阿弥陀如来の像一鋪、彫白栴檀千手の像一躯、繍千手の像一鋪、救世観世音の像一鋪、薬師阿弥?陀弥勒菩薩の端像各々一躯、同障子、金字の大品経一部、金字の大集経一部、南本涅槃経一部四十巻、四分律一部六十巻、法励の師四分の疏(そ=書物)(十八)五本各々十巻、光統律師の四分の疏百廿紙、鏡中記二本、智首師の菩薩戒の疏五巻、霊渓釈子の菩薩戒の疏二巻、天台の止観法門?玄義?文句各々十巻、四教儀十二巻、行法華懺法一巻、少止観一巻、六妙門一巻、明了論一巻、定賓律師の飾宗義記九巻、補釈(しゃく)餝(しき)集記一巻、戒疏二本各々一巻、観音寺亮律師の義記二本十巻、南山宣律師の含注戒本一巻、及び疏行事鈔五本、羯磨疏等二本、懐素律師の戒本疏四巻、大覚律師の批記十四巻、音訓二本、比丘尼伝二本四巻、玄奘法師の西域記一本十二巻、終南山宣律師の関中創開戒壇図経一巻、あわせて四十八部。及び、玉環水晶手幡四口、金珠‥欠字‥、菩薩子三斗、青蓮華廿口茎、玳瑁(たいまい=べっこう)の畳子八面、天竺の草履二両、王右軍の真蹟行書一帖、王献の真蹟行書三帖、天竺朱和等の雑体書五十帖、‥欠字‥、水晶手幡以下皆内裏に奉る。
大师抵达日本后的传戒情况,同依据《唐大和上東征伝》记载:
次に、皇后、皇太子又壇に登り戒を受け、尋いて沙彌修のために四百四十余人の戒を授く。又、旧との大僧霊祐、賢璟、志忠、善頂、道緑、平徳、忍基、善謝、行潜、行忍等の八十余人の僧は旧戒を捨てて大和上授けるところの戒を受く。後、大仏殿の西に於いて、別に戒壇院を作る。すなわち、天皇受戒の壇の土を移して之を作る……普照、思託は、大和上に「この地をもって伽藍と為し、長く四分律蔵法、法励の四分律疏、鎮道場、餝宗義記、(廿一)宣律師の鈔を伝えて持戒の力をもって国家を保護せん」と請う……
又摘日本唐招提寺官方信息如下:
日本唐招提寺,其“招提”意思是在佛身边修行的道场的意思,寺名寓意就是此寺庙是为唐朝来的鉴真和尚在此修行而建立的道场。该寺又称建初律寺,这是因为我国佛教是以中国四分律的南山宗戒律为中心的,而该寺又是我国最初的律寺。时至今日依然被尊为日本律宗总本山。
以上均可说明,大师抵达日本后是依据我国《四分律》的南山宗戒律来传戒的,属于具足戒,而并非是道听途说的在家菩萨戒。那么,关于日本的大乘戒又是如何而来的?这就与日本的“传教大师最澄”有关了。现摘日本《大乗戒壇》的记载如下:
天台宗の年分度者が認可されたあとも、正式な僧侶となるためには奈良で具足戒を受けなければなりませんでした。最澄は、『法華経』の精神に基づいて、僧侶だけでなくすべての人々を救い、共に悟りを得るためには、戒律は大乗の梵網菩薩戒でなければならないと考えて、比叡山に天台宗独自の大乗戒壇院を建立することを国に願い出ました。しかし奈良の僧侶たちの猛反対にあい、なかなか認可されないまま、最澄は弘仁13年(822)6月4日、56歳で遷化されました。その七日後、最澄の悲願であった大乗戒壇院の建立を許される詔が下されたのです。
依据上述资料,可以看出影响日本佛教戒律直到今天的大乘戒是由日本的传教大师——最澄在其晚年所倡导的。同时,上述材料也说明了他曾过受具足戒,关于这一点,由可以依据《最澄:大乗戒壇建立は具足戒の否定》一文中得到印证:
晩年の最澄には、しのこしたことがあった。大乗の戒壇院の設立である。806年(大同元)には百余名に大乗の戒をさずけている。これは唐において天台宗の道邃(どうずい)からさずけられたものであり、それを最澄は弟子たちにさずけていたわけであるが、この大乗戒は正式な比丘?比丘尼となるための具足戒とは本質的に異なっていた。具足戒を受けた場合、比丘は250戒、比丘尼は384戒を守らねばならないが、大乗の梵網戒の場合はむしろ心がまえをすればそれでよかった。大乗戒は在家?出家の区別なくさずけることができ、比丘?比丘尼?沙弥(しゃみ/僧になる前の修行者)?一般信者などの区別はなくなる。
ようするに、大乗戒なるものは戒の放棄である。僧(比丘)と俗人(在家)との違いは、戒を守っているか否かにある。戒を保たない者はすなわち僧ではない。南都六宗の僧たちはそのように考えていたであろう。最澄は伝統的な「小乗の戒」つまり具足戒は、少なくとも日本の当時の仏教徒にとって不必要だと主張したのだ。
日本では753年、鑑真が14名の弟子の僧を連れて来日し、東大寺に仮に設けられた戒壇で授戒がおこなわれて以来、授戒の制度が受け継がれていた。当時は中央(奈良)の東大寺、東国の下野(しもつけ)薬師寺、西国の筑紫(つくし)観世音寺の3ヵ所に戒壇院が設立されているのみであり、他の場所では具足戒を与えることはできなかった。最澄は比叡山に新しい戒壇院を建て、しかもそこでは僧たちに具足戒をさずけず、大乗戒をさずけたいと提唱した。
最澄は生涯を通じて常に人々、それも時の権威や実験者たちを驚かした。一つの新しいことをすばやくあざやかにやってみせ、人々が彼の意図を理解した頃には、彼は次の新しいことを持ち出していたのである。
817年(弘仁8)、徳一への反論を公表した最澄は、翌年818年、「今より以後、声聞の利益を受けず(中略)みずから誓願して250戒を棄捨す」(叡山学院『伝教大師全集』世界聖典刊行協会、新版5巻、1989年、附33および、田村晃祐『最澄』、192頁)と宣言した。19歳の時東大寺で受けた具足戒を、その時52歳の最澄は捨てたのである。周囲は驚き、かつ困惑したにちがいない。一宗の責任者が「自分は僧であることをやめる」と言い出したからだ。
以上材料至少反应两点信息:首先,再次说明鉴真大师至少是以14人的僧团规模在日本传授了具足戒,而并非在家菩萨戒;其次,最澄在日本已经受过具足戒,在其晚年(52岁)时舍比丘戒而求大乘戒。日本佛教僧团现今所受的戒律依然是依据最澄大师的“大乘戒”,这与鉴真大师是没有任何关系,切不可将此而怪罪于我大唐三藏法师鉴真大和尚!
关于更多更详细的资料,可以阅读《唐大和上東征伝》、《鑑真和上―私の如是我聞》、《鉴真东渡》。
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